「歓喜佛」の本尊を、内モンゴルのラマ寺で見た

あれは日米開戦1年前の春だった。
旧満州の新京で徴兵検査甲種を言い渡された私は、名古屋の連隊へ旅立つ3月の下旬、会社の上司S係長さんの南満州1週間の業務出張へ同行するよういわれた。
当時の満州も、戦時色が次第に色濃く、一般日本人男性はカーキ色の共和服着用が普通になっていた。わたしはそれにこだわらず、横浜で仕立てた背広姿でお供したのだった。

南下して旧奉天郊外の東洋一を誇る撫順炭坑を訪ね、逐次南下して鉄路の岐点、錦県から西へと向かった。短い列車が煙を吐き吐き走る車窓からの連続風景は私を驚かせた。
「床の間」の掛軸によく見かけるあの「南画」そのものだ。
終着駅、内モンゴル熱河省の首都・承徳は、あの当時どんな町だったか、全く記憶にない。

翌朝、旅館から二人はタクシーで町の外へ走り出した。
目的を知っているはずの係長さんは無言だ。
樹間を抜けて小高い丘に止まった。なんと、そこからは地の果てのような異様な空間が広がっていたのだ。
すぐ左手に高さ300メートルほどの灰色一色の山波が私たちの前面に裾を広げ、山頂は行儀よくほぼ一直線に地平線へと続いているのだ。その濃灰色の山肌のどこにも一本の樹木も草も生えていない。空には飛ぶ鳥もいない。

この本尊の存在を脳裡にとどめながら、この幽玄の地をあとにしたのだった。

2002年7月19日
山内 豊 85才

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